エッセイ

これからの時代を生き残るのは、人生の楽しみ方を知っている人だと思う

50歳になった今、ふと考えることがある。
うまく言葉にできない、漠然とした感覚。
それを一度、ちゃんと言葉にしてみたいと思った。

これからの世界では、「どれだけ蓄えたか」よりも「どれだけ味わえたか」が、人の生き残りを決めていく気がしている。

この直感のようなものは、別々の糸が何本か編み込まれている。
その糸をほどいてみよう。

経済の糸

ベーシックインカムのような世界が来るなら、「稼ぐ力」で生き残る時代は終わる。
お金の価値が薄れ、富の分け方そのものが変わっていくのなら、問われるのは「稼ぐ力」ではなく、「与えられた時間をどう生きるか」だ。
これは誰もが持っている技術ではない。
生きる意味を仕事や稼ぎだけに持っていた人は、その土台が外れたとき、案外もろい。
人生の楽しみ方を知っている人——その「味わう力」を持つ人が、存在として、意味としてこれからの時代を生き延びていくのだと思う。

記憶の糸

高齢の両親は、何度も何度も若い頃の同じ話を繰り返す。
繰り返し語るのは、彼らが輝いていた瞬間の話なのだ。
それはたいてい、何かを目指して没入していた時の話。

チームみんなで優勝を目指した少年時代。
一人黙々と練習を重ねた見習い時代。
プロになることを本気で夢見た時間。
など。
あの頃の両親は、全力で前を向いていたのだろう。
だからこそ、挫折も、途中で諦めてしまったことも、今なお胸の奥に残っているようだ。

輝きと後悔は、同じ瞬間の表と裏なのだろう。
本気で挑んだからこそ、後悔も深く刻まれる。

母はよく「生まれ変わったら…」と言う。
来世こそは、と。

けれど私は、来世には期待しない。
やり直しを別の人生に預けるのではなく、この一度きりの人生を、今、思い切り生きたい。

時間の糸

50歳になった今、体力を使う楽しみは、あと15年ほどかもしれないと漠然と思うようになった。
楽しみには「賞味期限の違い」があるのだろう。
冒険的・身体的な喜びは人生の前半に偏っている。
一方で、人との関係、美しいものを味わう感覚、思索、そして「思い出を反芻する喜び」は、歳をとっても減らない——むしろ深まる。
“楽しみ方を知る”とは、どの喜びを、いつ収穫するかを知ることでもある。

私は20代前半頃、借金をしてネパール、タイ、カンボジアなどを旅したことがある。
若いうちに冒険的・身体的な楽しみをしようと思ったからだ。
当時は、年齢をある程度重ねてからヨーロッパを楽しもうと考えていた。

だからこそ、この15年で、もっと世界を見たい。
そして——自分ひとりが豊かになるのではなく、みんなも一緒に。
それが心の豊かさ、金銭的な豊かさ、情熱を注げる何かを作ることなのか、富の分配なのか、新しい稼ぎ方なのかはまだ分からないけれど、誰かと共に、面白いことをしたい。
ひとりで味わう喜びより、分かち合った喜びのほうが、きっと深く長く残るから。

老いの先で、体力を使う楽しみはいずれ手放すことになる。

それでも、思い切り没入した記憶だけは、最後まで色褪せない。
終盤の私を支えてくれるのは、貯めたお金でも、安全に過ごした時間でもなく、「あの時、確かに全力で生きた」という手応えだ。

一度生きた喜びは、記憶を通じて何度でも味わえる。
鮮烈に生きた瞬間は、人生で最も利回りの高い投資なのだ。
人生の終盤にまで何度も配当を受け取ることができる。

だから今を生きる。
世界を見て、仲間と分かち合い、後悔さえも本気で生きた証として抱きしめられるように。

これは私が出した「答え」ではなくて、考えてみた途中のもの。
あなたの15年は、どんな15年だろう。
よかったら、聞かせてください。

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